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はじまりは麗江地震 初鹿野恵蘭理事長 2006年5月26日
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1996年―1人の留学生のカンパ |
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雲南省の麗江で大地震が起き、その事を報道で知った私と数人の友人は、募金活動をして集まった援助金を被災地に届けました。そこで見たのは、経済的、環境的に恵まれない子供達が一生懸命学ぼうとする姿でした。

この事がきっかけになり、その後十数回雲南省の貧困地を訪れ、教育に関して調査してきました。そこには、勉強をしたくてもできない子供達が大勢いたのです。しかも、学校や先生の不足が大変深刻な問題であることが解りました。このことにより、私は一人でも多くの子供達が学校へ通えるように支援活動を行い、しばらくは支援者の方々と共に故郷雲南省の子供達へ個人的な支援を行ってきました。
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2000年―特定非営利活動法人 日本・雲南聯誼協会の誕生 |
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雲南省にかかわらず中国の奥深い山岳部などは政府の政策も進まず、貧困に苦しんでいます。そこから抜け出すためには教育環境を整えることが大切だと思い、また、個人的な支援には限界があるので、より多くの方からの協力を結集し、2000年に当協会を設立、2001年にNPО法人格を取得し、小学校建設を大きな柱とする教育支援活動を行っていくことに決めました。現在に至るまで、多くの日本人の方からのご協力をいただき、雲南省に10校の小学校を建設することが出来ました。
日本・雲南聯誼協会設立大会
1996年の麗江大地震以来、今までどんな苦労があっただろうかと思い起こしてみますが、不思議とつらいと思ったことはありませんでした。毎日毎日があまりにも忙しく、苦労を感じなかったのかもしれません。また、多くの立派な大先輩たちとの出会いが苦労を苦労と感じさせなかったのかもしれません。 |
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現在―素晴らしい出会い、そして活動の広がり |
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小学校建設の事業を進めていくと同時に、日本国内のさまざまな分野の方々との大切な出会いも数多くありました。教育だけにとどまらず、それは必要とされている分野の大学教授たちであったり、出版印刷など企業のトップの方であったり、医療関係や環境問題にもその裾野は広まり、それに伴って、自然と協会の活動範囲も広まってきました。
教育支援活動を柱としながら、日中両国の企業間の交流や投資・貿易事業の促進、脳神経外科の開設、環境問題への取り組み、セミナーの開催、展示会の開催等、活発な活動を続けています。多くの方が私の活動に魅力を感じ、興味を持ってくださっている、そして力強く応援してくださっている結果だと思っています。
皆さまとの出会い、そして会員の方々の暖かな支援があるからこそ、日本・雲南聯誼協会の活動は成り立っているのです。 |
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変わらぬ教育支援への思い |
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雲南省の激流、怒江大峡谷の直ぐそばに2003年当時建設中であった四校目の小学校を訪れた際のエピソードです。 学校の近くに住んでいる子供達に会いに行く途中、野原で勉強をしている子供の姿、幼い兄弟が手伝いのため山へ草刈りに行く姿なども目の当たりにしました。 きっとこの子たちにも大きな夢があるだろう。大きくなったらどんな大人になっていくのだろう。 そんな感慨にふけりながら、子供に声を掛けました。「勉強が好き? 学校へ行きたい?」いくら先生達から歓迎の気持ちで頂いた少数民族リス族の服を着ていても、やはり私はこの村では初めてのお客さんなのでしょう。不思議な眼差しで私の顔を見つめ、笑顔で「好き、学校へ行きたい」と答えてくれました。その瞬間、胸が熱くなり今まで頑張ってきた教育支援、学校を作って本当に良かったと思いました。人の為に生きると言うことは有意義な人生を送れるのだなと思いました。 |
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照亮他人、也照亮了自己 |
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| 日本・雲南聯誼協会にとってこの10数年間は短い期間でしたが、支援活動で自分自身も成長し、多くの日本の国民と雲南の子供達から人間としての"真、善、美"を教えて貰いました。
協会の活動はとても忙しく、中国と日本を往復する日々です。今後は、教育支援の活動だけではなく、日本と中国の友好のため益々活動は増えてきています。 日本と中国という2つの故郷をもつ私には、やらなければならない「役割」があるように感じています。私たちの活動を通じて、両国の国民の友好の絆を強く代々に伝えていきたいと思っています。 |
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